百と卍の生きる江戸の世界

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百と卍

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メディア芸術祭 受賞者デモンストレーションより

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江戸浮世絵木版画にもなっている

「百と卍」とは現在onBLUEで連載中の紗久楽さわ先生による江戸を舞台にしたBLだ。 浮世絵のテイストを落とし込んだ高い描写力や江戸時代の文化をBLで魅せる本作は、BL愛読者だけではなく第22回文化庁メディア芸術祭マンガ部門で優秀賞を受賞するなど多方面から注目を集めている。

comic.pixiv.net

第三話までpixivコミックでも読む事ができる。 

時は江戸時代・文政後期。元陰間の百樹は、ある雨の日に浅草の駒形堂で卍に出逢い拾われた。 それから義兄弟の契りを交わした2人は、のらりくらりとその日暮らし。お互いに昔のことは知らないけれど、今はいっしょに過ごせることが、何よりも愛おしい時間なのであった…。
(あらすじより引用) 


今回は「百と卍」に登場するお江戸スッポットを今の風景と共に紹介する。

浅草 

駒形堂

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駒形堂

百と卍が出会った駒形堂。
「お百曰く俺たちは雨の日に出会ったそうだが 俺に言わせりゃあの日は虹の出た日だ」
(1巻収録・第2話5ページ)


隅田川にかかる駒形橋の傍に建つ。浅草寺御本尊の聖観世音菩薩が隅田川に示現されこの地に上陸されて祀られたという浅草寺発祥の霊地に建つお堂。江戸時代には駒形堂のすぐ前は船着き場で渡しや船宿もあり賑わっていた。ここから上陸した人は駒形堂の御本尊を拝んでから浅草寺に向かった。天慶5年に建立されてから駒形堂はこれまで何度も焼失しており、現在のお堂は平成15年に再建されたもの。 はじめ堂宇の正面は川側に向いていたが、時代とともに現在のように川を背にするようになった。

所在地:東京都台東区浅草2-2-3
アクセス:都営地下鉄浅草線「浅草駅」徒歩1分

 

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駒形堂裏の現在の景色

 駒形堂を抜けて隅田川沿いに出ると、アサヒビール本社ビルと「金のう●こ」として親しまれている「聖火台の炎」のオブジェ、スカイツリーなど現在の浅草名所を眺めることができる。

浅草寺

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仲見世通り

浅草寺の表参道。貞享2年頃、参拝者の増加に伴い浅草寺は付近の住人に境内の清掃を賦役として課すかわりに軒先に床店(商品を並べるだけの簡単な店)をだす許可を与えた。これが仲見世の発祥と言われている。

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宝蔵門(仁王門)

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年末は歳の市、年始は初詣で賑わう

仲見世通りを進むと見えてくる宝蔵門(元々は仁王門と呼ばれていた)は天慶5年に建立。江戸時代は一般信徒への特別なはからいとして、元旦など決められた年間数日のみ楼上に登ることが許された。昔はこの付近に高層建築がなかったため、人々は楼上からの眺めを楽しんだ。(現在は登れません)

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浅草寺の五重塔

百と卍は浅草のボロ長屋で同棲しており、浅草寺も作中で度々描かれている。
(1巻収録・第3話扉など)

 浅草寺に塔が建立されたのは天慶5年のこと。当時は三重塔で浅草寺に向かって左右に配された「薬師寺式伽藍」だったとの見解もある。本堂を中央に東西に二基の塔を配する伽藍配置のことを「薬師寺式伽藍配置」という。江戸時代・寛永年間の浅草寺境内図には本堂の東側に五重塔、西側に三重塔が建ち、境内に二つの塔が並存していた。焼失後、慶安元年に徳川家光が塔を再建するも三重塔は復興されなかった。現在の五重塔は鉄骨・鉄筋コンクリート造りの塔で、昭和48年に再建された。

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本堂から見る五重塔

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本堂(観音堂)裏

本堂の創建はご本尊が示現された推古天皇36年(628)にさかのぼる。その長い歴史において、幾度も被災しながらも再建されてきた。縁起や記録類によると、現在まで20回近い再建を数える。中でも寛永12年(1635)に再建された本道は、寛永19年(1642)に門前町の失火により再建よりわずか7年という期間で延焼してしまった。このように焼失しながらも間もなく再建されたのは、幕府が浅草寺を厚く庇護していたということでもある。現在の本堂は昭和33年(1958)に再建されたもの。

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六角堂

浅草寺にある六角堂は「浅草寺誌」に元和4年(1618年)建立とあり、江戸時代初期の建築と考えられ、浅草寺内では最高の遺構。六角という特異な形式で、都内においては遺例の少ない建造物である。

所在地:東京都台東区浅草2-3-1
アクセス:各線「浅草駅」徒歩5分

 上野

寛永寺

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寛永寺

第4話に上野の寛永寺をはじめ百のいた湯島に至る上野周辺の描写が出てくる。

寛永寺の始まりは元和8年に徳川秀忠(2代目将軍)が上野の地を天台宗の僧天海に寄進したことから始まる。現在の寛永寺は鶯谷駅近くの上野桜木にあるが、旧本堂は今の東京国立博物館前の噴水池あたりにあった。 江戸末期までの寛永寺は今の上野公園をはじめその周辺にも子院が立ち並び、江戸将軍ゆかりの寺に相応しい威容を誇っていた。明治維新の際に上野戦争で大半が炎上、その後明治政府の命令で境内は江戸時代の十分の一ほどと大幅に縮小され現在に至る。元の本堂は慶応4年(1868)に焼失したため、明治9年(1876)から12年かけて埼玉県川越市の喜多院の本地堂が移建され、寛永寺の本堂となった。寛永15年(1638)の建造といわれる。

所在地:東京都台東区上野桜木1丁目14番11号
アクセス:JR「鶯谷駅」徒歩7分

 

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旧寛永寺五重塔(旧東照宮五重塔)

こちらは作中に出てくるわけではないが、寛永寺ゆかり、そして江戸時代の建造物として紹介する。この五重塔は寛永8年 (1631)に上野東照宮の一部として建立されました。その後、寛永16年(1639)に火災により焼失、同年に再建されたのが現在の五重塔だ。関東大震災でも倒壊せず、戌辰戦争や第二次世界大戦でも焼失を免れた江戸初期の建築様式を伝える建築物である。
全国の神社が所有する五重塔の多くは明治時代の神仏分離令(神道の国教化政策を行うため、神社から仏教的な要素を排除しようとした)により仏教施設であることから破壊された。当時この五重塔も取り壊しの対象となったが、当時の宮司が何とか残そうと熟慮を重ね、五重塔を手放し寛永寺の所属であると国に申し出をし、その機転により取り壊しを免れた。長い間寛永寺の所属となっていたが、昭和33年(1958)に寺から距離があり管理が難しいことから東京都に寄付された。現在この五重塔が建っている地は上野動物園の敷地内だが、以前は東照宮側に山道があり、五重塔の正面は東照宮から見た面になる。 

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上野大仏(下町風俗資料館展示資料より)

こちらも4話に出てくる上野大仏。(明治に再建された姿) 明暦〜万治年間(1655〜60)に江戸市民からの浄財により造立した3メートル60センチをこえる青銅製の釈迦如来坐像。元禄11年には仏殿も造られた。

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現在の上野大仏

度々火事や地震で被害を受け、その都度修復されたが、明治6年に仏殿が取り壊され、大正12年の関東大震災で頭部が崩落。再建される計画もありったが、復元されることなく戦中の金属回収令により胴体と脚部が供出され 、面部のみが寛永寺に遺った。昭和47年に寛永寺が現在の場所(旧地)に壁面を設け、顔をレリーフ状にして奉安した。なお、江戸時代の大仏は南に向かって造立され、丘稜の南側には当時の参道(石段)が現存する。建立当初より大きく姿を変えたが「これ以上落ちない合格大仏」として信仰を集めている。

所在地:東京都台東区上野公園4−8
アクセス:JR「上野駅」徒歩5分

不忍池弁天堂

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不忍池から見る弁天堂

ぜひ蓮の美しい時期に訪れてみてください。

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不忍池弁天堂

上野・不忍池。池の中心にの島には弁天堂があり、それを囲むようにして出逢茶屋(ラブホテル)が軒を連ねる。(2巻収録・第13話)


不忍池弁天堂は寛永年間に天海大僧正によって建立された。 「寛永寺」の 名称は「寛永」年間に創建されたことからついたが、これは「延暦」年間に創建された天台宗総本山の「延暦寺」を見立てたもの。不忍池を琵琶湖に見立て、島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立した。 琵琶湖と竹生島に見立てたお堂だったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたが、参詣者が増え江戸時代に橋がかけらた。 お堂は昭和20年の空襲で一帯が焼けたことにより焼失したが、昭和33(1958)年に再建した。

所在地:東京都台東区上野公園2−1
アクセス:JR「上野駅」徒歩7分

 湯島

湯島天満宮

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湯島天満宮

文政末期、江戸に残った陰間茶屋の地区は四ツ。芳町・芝神明・八丁堀代地に最後の一町、かつて百がいた湯島(1巻収録・第4話)
1巻の巻末にはさわ先生による陰間についての詳しい説明があるので、気になった人はコミックスをチェック!


湯島天神は雄略天皇2年(458)勅命により創建と伝えられている。村人が菅公を慕い、文道の大祖と崇め本社に奉祀。学者・文人の参拝もたえることなく続き、将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移し、この地を文教の中心として湯島天満宮を崇敬した。元禄16年(1703)の火災で全焼、明治18年に改築された社殿も老朽化が進み、平成7年に総檜造りで造営された。

所在地:東京都文京区湯島3−30−1
アクセス:東京メトロ各線「湯島駅」徒歩2〜10分

番外編 

江戸の火消し

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火事装束(東京国立博物館)

江戸時代・19世紀 武家女性用の火事装束

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火事装束(東京国立博物館)

武家は重要度を反映して、定火消(旗本)が江戸城、大名火消はその他の幕府主要地域の消火に当たった。大名火消の装束は陣羽織と共通する素材や構造を持っている。

www.tfd.metro.tokyo.lg.jp

「火事の喧嘩は江戸の華」という言葉が残るくらい今回紹介してきた建築物も焼失しているように、江戸は度々火災に見舞われた。その火事から江戸を守るのが「火消し」だ。中でも町火消は延焼をくい止める破壊消防が主体だったため、生命の危険を伴う荒々しいものだった。

2巻では卍兄の過去が描かれている。篠笛吹きの前は江戸の花形職業の町火消だった。
2巻の巻末で町火消について詳しく解説されているので、町火消についてはコミックスの2巻をチェック! 

刊行情報 

百と卍は3巻まで発売中!!!

各サイトにて電子書籍も配信

純真、久しからず 序幕

純真、久しからず 序幕

現在fromREDで連載中の江戸時代版・青春グラフィティBL!

 

 錦絵でたのしむ江戸の名所

www.ndl.go.jp

上記サイトでは国会図書館のコレクションの江戸の名所を描いた錦絵を掲載した「錦絵でたのしむ江戸の名所」というコンテンツを公開しており、当時の景観を楽しむことができる。